2013年 01月 07日
近江路 その1 彦根 |
年始になって旅行にでかけた。
目的地は近江と京都。近江は彦根・長浜を訪ね、
石山寺と三井寺に参詣した。
京都は愛宕(おたぎ)と化野(あだしの)の両念
仏寺、祇王寺、常寂光寺を見て回った。
短い旅だったが、充実したものとなった。
1日目
彦根城
新幹線を米原で東海道線に乗り換え、すぐに彦根
に着いた。
彦根駅に近づくと右手の琵琶湖の方角に城が見え
てきて、ああ、あれだなとすぐ分かった。
街は閑散としていて、彦根城に向かう大通りにも
人気が少ない。7分ほどで、護国神社に出、その
彼方に城の天守が見えた。
駅舎を離れるとき案内板があり、佐和山城はここと
反対側の山の頂に跡があると書かれていた。
たしか元は京極家の支配地であって、その頃はまだ
山の頂上が防御上必要だったようだ。
ここ彦根城は山といっても丘程度である。
神社の左に回り、城の中堀に沿って進むと二の丸櫓
(やぐら)に出る。
さらに進むと内堀に出、表門に出る。橋を渡り、い
よいよ城の中に入る。すぐ管理事務所がありここで
入城(場)券を買う。
彦根城は徳川譜代の井伊家の城で関ヶ原の戦いが終
わって3年後、1603年に着工し、1622年に
完成したそうだ。
時の城主は井伊直継といったそうだが、まだ幼年の
ため、家老の木俣某が家康と相談して進めたようだ。
家康を盛りたてた井伊直政は関ヶ原の役での傷がも
とですでにいない。
工事は12カ国の譜代が応援する天下普請だったそ
うで、この地域の廃城(佐和山城、安土城、観音寺
、長浜、小谷など)の櫓、天守、石垣その他の資材
をかき集めた上でもまた足りなかったといわれる。
それだけ広大であった。
券をもぎってもらい、城山に登る。
坂を上がると櫓があり、それにわたる空中に橋が
かけられている。これはイザとなったら落される
落とし橋。
城はいろいろな仕掛けが施されている。だいたい、
90度に曲がる道がそうだし、この場所は360
度曲がらなければならない。櫓の狭間(はざま)
は弓・鉄砲で敵を撃つために開けられている。
曲げれば曲げるほど建物側には有利だ。
橋の下を左に回りこみ、櫓に行くと基礎の石垣の
つくりの違いに気づく(人もいる)。
私は気付かなかった。
1854年(安政元年)に基礎の石垣の大修理が
あり、左側の石垣は元から積み直されたそうだ。
右側がごぼう積みとか野面(のずら)積みとかい
われ、化粧無しなのに対し、修理された左側は落
とし積みといわれる手法で、きれいにデコボコが
落とされ、つるつるである。
こちらの方がきれいだし、登りにくい。
石垣を見るたび、よくもこんな立派な石垣を数百
年も前に作ったもんだと感心するが、それには専
門家集団がいたそうだ。
穴太衆(あのうしゅう)という。
じつはかれらもまた、ここ近江の国の人々で、穴
太(あのう)という出身の町が湖西にある。
近江人は商売上手というが、こうした土木の設計
にも長けていたようだ。
そうそう鉄砲で有名な国友(くにとも)鍛冶も長
浜だった。
話が長くなった。天守に参ろう。
天守閣は国宝だ。大津城から天守を頂いてきたも
ののようで、中央に通し柱が無く隠し狭間があっ
たり、唐破風、千鳥破風、入母屋破風など様々な
意匠がほどこされている。
この巨大な城は家康が西国大名をいかに警戒して
いたかを証明している。また、譜代一の活躍をし
てきた井伊家にこの東西南北の交通の要衝をまか
せたのも頷ける。
天守閣のある台地の一角に見張所がある。
琵琶湖も見えるし、東海道から北陸道も見渡せる。
天守閣に上がってみた。
隠し狭間や各種の破風のつくりを裏から見ること
ができた。
天守を下り、表ご門そばの表御殿に行った。そこ
は今、博物館になっているが、ふだん城主の生活
や事務の場であった。
城主のものと伝えられる甲冑。金の脇立ちが重そうだ。
下のものは侍大将のものか、前立ちになっている。
関ヶ原の役の合戦絵巻が伝わっている。当然活躍す
るのは井伊の赤備え。
井伊直政も中央に見える。
この絵には徳川の本陣や石田三成の本陣も見え、
なかなか面白い。
井伊家は15代の直弼を入れて4人の大老を中
央に送っている。まことに忠勤ぶりは他の模範
であったようだ。
直弼は開港、開国を決断した近代化策をとった
わけだが、ときの為政者として海外とのシビア
な外交を体験すればそれは道理であった。
しかし、日本全体の近代化ではなく、徳川封建
体制を維持強化しようとするものだった。
そこに桜田門の悲劇が生まれる。
どこまでも徳川家と譜代の家々中心の世界観か
ら抜け出ることはなかったのだろう。
直弼も愛した表御殿の庭はとても美しかった。
能舞台
彦根城の見学を終えて、城下町を歩いた。
この一角は夢京橋キャッスルロードと名付け
られて、いわば町興しの先端を行っているよ
うであった。
そこで見た町興しキャラは・・・
なんと東京のおしなり君ではないか。
なぜ君はこんなところで商店街のジャンケン
大会に出ているんだ?
じゃあ、ヒコにゃんは東京スカイツリーに出
張しているのかな?
あるレストランでうなぎ柳川鍋とウドンのセ
ットをいただいて、彦根に別れを告げた。
駅前の直政の銅像。
うしろは佐和山。いまはハイキングコースとなっている。
目的地は近江と京都。近江は彦根・長浜を訪ね、
石山寺と三井寺に参詣した。
京都は愛宕(おたぎ)と化野(あだしの)の両念
仏寺、祇王寺、常寂光寺を見て回った。
短い旅だったが、充実したものとなった。
1日目
彦根城
新幹線を米原で東海道線に乗り換え、すぐに彦根
に着いた。
彦根駅に近づくと右手の琵琶湖の方角に城が見え
てきて、ああ、あれだなとすぐ分かった。
街は閑散としていて、彦根城に向かう大通りにも
人気が少ない。7分ほどで、護国神社に出、その
彼方に城の天守が見えた。
駅舎を離れるとき案内板があり、佐和山城はここと
反対側の山の頂に跡があると書かれていた。
たしか元は京極家の支配地であって、その頃はまだ
山の頂上が防御上必要だったようだ。
ここ彦根城は山といっても丘程度である。
神社の左に回り、城の中堀に沿って進むと二の丸櫓
(やぐら)に出る。
さらに進むと内堀に出、表門に出る。橋を渡り、い
よいよ城の中に入る。すぐ管理事務所がありここで
入城(場)券を買う。
彦根城は徳川譜代の井伊家の城で関ヶ原の戦いが終
わって3年後、1603年に着工し、1622年に
完成したそうだ。
時の城主は井伊直継といったそうだが、まだ幼年の
ため、家老の木俣某が家康と相談して進めたようだ。
家康を盛りたてた井伊直政は関ヶ原の役での傷がも
とですでにいない。
工事は12カ国の譜代が応援する天下普請だったそ
うで、この地域の廃城(佐和山城、安土城、観音寺
、長浜、小谷など)の櫓、天守、石垣その他の資材
をかき集めた上でもまた足りなかったといわれる。
それだけ広大であった。
券をもぎってもらい、城山に登る。
坂を上がると櫓があり、それにわたる空中に橋が
かけられている。これはイザとなったら落される
落とし橋。
城はいろいろな仕掛けが施されている。だいたい、
90度に曲がる道がそうだし、この場所は360
度曲がらなければならない。櫓の狭間(はざま)
は弓・鉄砲で敵を撃つために開けられている。
曲げれば曲げるほど建物側には有利だ。
橋の下を左に回りこみ、櫓に行くと基礎の石垣の
つくりの違いに気づく(人もいる)。
私は気付かなかった。
1854年(安政元年)に基礎の石垣の大修理が
あり、左側の石垣は元から積み直されたそうだ。
右側がごぼう積みとか野面(のずら)積みとかい
われ、化粧無しなのに対し、修理された左側は落
とし積みといわれる手法で、きれいにデコボコが
落とされ、つるつるである。
こちらの方がきれいだし、登りにくい。
石垣を見るたび、よくもこんな立派な石垣を数百
年も前に作ったもんだと感心するが、それには専
門家集団がいたそうだ。
穴太衆(あのうしゅう)という。
じつはかれらもまた、ここ近江の国の人々で、穴
太(あのう)という出身の町が湖西にある。
近江人は商売上手というが、こうした土木の設計
にも長けていたようだ。
そうそう鉄砲で有名な国友(くにとも)鍛冶も長
浜だった。
話が長くなった。天守に参ろう。
天守閣は国宝だ。大津城から天守を頂いてきたも
ののようで、中央に通し柱が無く隠し狭間があっ
たり、唐破風、千鳥破風、入母屋破風など様々な
意匠がほどこされている。
この巨大な城は家康が西国大名をいかに警戒して
いたかを証明している。また、譜代一の活躍をし
てきた井伊家にこの東西南北の交通の要衝をまか
せたのも頷ける。
天守閣のある台地の一角に見張所がある。
琵琶湖も見えるし、東海道から北陸道も見渡せる。
天守閣に上がってみた。
隠し狭間や各種の破風のつくりを裏から見ること
ができた。
天守を下り、表ご門そばの表御殿に行った。そこ
は今、博物館になっているが、ふだん城主の生活
や事務の場であった。
城主のものと伝えられる甲冑。金の脇立ちが重そうだ。
下のものは侍大将のものか、前立ちになっている。
関ヶ原の役の合戦絵巻が伝わっている。当然活躍す
るのは井伊の赤備え。
井伊直政も中央に見える。
この絵には徳川の本陣や石田三成の本陣も見え、
なかなか面白い。
井伊家は15代の直弼を入れて4人の大老を中
央に送っている。まことに忠勤ぶりは他の模範
であったようだ。
直弼は開港、開国を決断した近代化策をとった
わけだが、ときの為政者として海外とのシビア
な外交を体験すればそれは道理であった。
しかし、日本全体の近代化ではなく、徳川封建
体制を維持強化しようとするものだった。
そこに桜田門の悲劇が生まれる。
どこまでも徳川家と譜代の家々中心の世界観か
ら抜け出ることはなかったのだろう。
直弼も愛した表御殿の庭はとても美しかった。
能舞台
彦根城の見学を終えて、城下町を歩いた。
この一角は夢京橋キャッスルロードと名付け
られて、いわば町興しの先端を行っているよ
うであった。
そこで見た町興しキャラは・・・
なんと東京のおしなり君ではないか。
なぜ君はこんなところで商店街のジャンケン
大会に出ているんだ?
じゃあ、ヒコにゃんは東京スカイツリーに出
張しているのかな?
あるレストランでうなぎ柳川鍋とウドンのセ
ットをいただいて、彦根に別れを告げた。
駅前の直政の銅像。
うしろは佐和山。いまはハイキングコースとなっている。
by katodiary
| 2013-01-07 17:50
| 旅に出よう
|
Comments(0)