2014年 01月 04日
広島を見よう |
広島を見て、思ったことは「広島を見よう」ということ
であった。私ももっとじっくり「見よう」ということで
あるし、まだ見てない人にはぜひ「見よう」と話したい。
そして、この原爆ドームを永久に保存しあの日のことを
語り継ぐことの大切さを感じた。
東北の大震災で、津波によって流された船や、壊された
建物を保存し語り継ぐことも今更ながら大事なことだ思
った。
千年前の津波どころか、江戸・明治・昭和の大津波を忘
れてあの甚大な被害を受けてしまったのだから、被害に
会われ肉親を失った方の悲しみは理解できるが、そうい
うことが二度と起こらないように記録し残し、子孫に伝
えていかなければ。
維持費というコスト問題はなんとでも解決はつくのだか
ら、まずは皆で残そうとしなければ。
話題は広島だった。
新幹線で広島駅に行き、駅前から市電・宮島口行きに乗
って約15分、賑やかな市街を走り、原爆ドーム前に着
く。
市内で亡くなられた方のうち約2万人の遺骨が葬られ
た墓が平和公園にあった。
ボランティアでガイドを務める方の話は寒空の下でも
多くの方が聞き入っていた。
アメリカが投下する数カ月前から広島や長崎、小倉な
どの都市への爆撃を禁止していたこと。戦後すぐにア
メリカの被害調査団ABCCが来て、人体への被害を
掴むために亡くなったかたの臓器を大量に持ち帰った
りするなど、広島を「生きた核実験場」と考えていた
こと。
原爆を投下した最大の理由はソビエトの参戦であるの
は確かだろうが、原爆戦の予行演習としての活用があ
ったのも確かである。
将来、第3次大戦になったとき、どう生き残るかがテ
ーマであったわけだ。
平和資料館を訪ねた。
入口で海外からの若者2人が財布から50円の入場料
を取り出そうと苦労していた。
私が I'll give you . と言ったら That's OK , thank
you. と答え、ようやく千円札を引っ張りだした。
どこから?ときくとフランスから3週間の予定で日本
を旅行中と言う。
Enjyoy your trip . と話して中に入った。
資料館の中の写真は携帯に保存した。今そのコードを
家に置いてきたので、ココ教室ではダウンロードでき
ない。次回に。
資料館を出て、またドームの前を通って市電の駅に向
かった。
今日はこれから宮島の厳島神社に行く。
市電は延々と進む、市街地を抜けてもなかなか着かな
い。お客さんの中にインド人らしき人達がいて、ファ
ミリーに見受けられた。
おそらく同じ目的で終点まで行くのだろう。
英語を話すかちょっと躊躇したが、思い切って声をか
けた。お父さんとその娘さんかと思える。
Do you speak English ? YES!
娘さんが答えた。明瞭にかつ素早く!!
彼らはテキサスから来ていて、娘さんがロスの大学
生で2週間の家族旅行中ということだった。
日本の印象を聞くと、街も自然も美しくて、歴史的な
ものや習慣と現代的な技術やシステムが融合している
そこが素晴らしいとほめてくれた。
お父さんはダラスで通信機器の販売をしているそうだ。
もっと話をしたかったのだが、終点の宮島口が近づい
た。
楽しい旅を。あなたもね。
挨拶を交わして市電を下り、まっすぐフェリーに向か
った。
厳島神社の神の鹿が迎えてくれた。
満潮を迎えようとしている神社は社の柱がようやく潮に
浸されるころであった。
干潮の際にはあの大鳥居まで歩けるのだそうだ。
そしてまた、あの鳥居のでかさはどうだ。横幅24m、
高さ16m、重さが60tonというのだからすごい。
しかも地中に埋められているのではなく、自重で立っ
ているだけらしい。
この大鳥居を真後ろにして写真を撮りたい人達が行列
をつくっていた。私は行列がキライ。
アチコチを見てまわり、おみくじを引いた。
氷川様では吉だったよ、とささやいて引いた。
するとやっぱり吉だ。26番。
建て家、家移りともよし・・・とあった。
神社を出るとその裏に弁天さんがあった。そこにおびん
づる様が置かれていて、外国人の若い女性が写真を撮っ
ていた。
それは触ってもいいんですよ。 You can touch and
pet it .
あなたの体で治したい場所をなでると良くなるかもし
れませんというと、少したどたどしい日本語で、「そ
うですね。よくお寺にありますよね」と答えた。
エッ、日本語が上手ですね。勉強中ですかと聞くと、
ドイツから日本語留学に来て、東京に住んでいるとの
ことだった。半年間勉強したというだけにしてはとて
も上手であった。
私はヨーロッパを旅行しミュンヘンやハイデルベルグ
などを訪ね、フランクフルトにはドイツ人の友人がい
ることなどを話した。
勉強中だから日本語を話したかったようだ。言葉はこ
うして、下手でもどんどん使うことが重要だ。
彼女に、たくさん日本人に話しかけなさいとアドバイ
スして別れた。
さて、日没が近かったので、境内の裏手にあったお
店で焼きがきを頂いて、ライトアップを待った。
その写真も携帯にあるので、後日公開。
今夜の宿は宮島口、また夜のフェリーで本土に戻る。
旅の初日はやや寒かったものの、薄日がさし、まず
まずであった。
たぶんあしたもいい天気だろう。だって、旅行よし
だもの。
であった。私ももっとじっくり「見よう」ということで
あるし、まだ見てない人にはぜひ「見よう」と話したい。
そして、この原爆ドームを永久に保存しあの日のことを
語り継ぐことの大切さを感じた。
東北の大震災で、津波によって流された船や、壊された
建物を保存し語り継ぐことも今更ながら大事なことだ思
った。
千年前の津波どころか、江戸・明治・昭和の大津波を忘
れてあの甚大な被害を受けてしまったのだから、被害に
会われ肉親を失った方の悲しみは理解できるが、そうい
うことが二度と起こらないように記録し残し、子孫に伝
えていかなければ。
維持費というコスト問題はなんとでも解決はつくのだか
ら、まずは皆で残そうとしなければ。
話題は広島だった。
新幹線で広島駅に行き、駅前から市電・宮島口行きに乗
って約15分、賑やかな市街を走り、原爆ドーム前に着
く。
市内で亡くなられた方のうち約2万人の遺骨が葬られ
た墓が平和公園にあった。
ボランティアでガイドを務める方の話は寒空の下でも
多くの方が聞き入っていた。
アメリカが投下する数カ月前から広島や長崎、小倉な
どの都市への爆撃を禁止していたこと。戦後すぐにア
メリカの被害調査団ABCCが来て、人体への被害を
掴むために亡くなったかたの臓器を大量に持ち帰った
りするなど、広島を「生きた核実験場」と考えていた
こと。
原爆を投下した最大の理由はソビエトの参戦であるの
は確かだろうが、原爆戦の予行演習としての活用があ
ったのも確かである。
将来、第3次大戦になったとき、どう生き残るかがテ
ーマであったわけだ。
平和資料館を訪ねた。
入口で海外からの若者2人が財布から50円の入場料
を取り出そうと苦労していた。
私が I'll give you . と言ったら That's OK , thank
you. と答え、ようやく千円札を引っ張りだした。
どこから?ときくとフランスから3週間の予定で日本
を旅行中と言う。
Enjyoy your trip . と話して中に入った。
資料館の中の写真は携帯に保存した。今そのコードを
家に置いてきたので、ココ教室ではダウンロードでき
ない。次回に。
資料館を出て、またドームの前を通って市電の駅に向
かった。
今日はこれから宮島の厳島神社に行く。
市電は延々と進む、市街地を抜けてもなかなか着かな
い。お客さんの中にインド人らしき人達がいて、ファ
ミリーに見受けられた。
おそらく同じ目的で終点まで行くのだろう。
英語を話すかちょっと躊躇したが、思い切って声をか
けた。お父さんとその娘さんかと思える。
Do you speak English ? YES!
娘さんが答えた。明瞭にかつ素早く!!
彼らはテキサスから来ていて、娘さんがロスの大学
生で2週間の家族旅行中ということだった。
日本の印象を聞くと、街も自然も美しくて、歴史的な
ものや習慣と現代的な技術やシステムが融合している
そこが素晴らしいとほめてくれた。
お父さんはダラスで通信機器の販売をしているそうだ。
もっと話をしたかったのだが、終点の宮島口が近づい
た。
楽しい旅を。あなたもね。
挨拶を交わして市電を下り、まっすぐフェリーに向か
った。
厳島神社の神の鹿が迎えてくれた。
満潮を迎えようとしている神社は社の柱がようやく潮に
浸されるころであった。
干潮の際にはあの大鳥居まで歩けるのだそうだ。
そしてまた、あの鳥居のでかさはどうだ。横幅24m、
高さ16m、重さが60tonというのだからすごい。
しかも地中に埋められているのではなく、自重で立っ
ているだけらしい。
この大鳥居を真後ろにして写真を撮りたい人達が行列
をつくっていた。私は行列がキライ。
アチコチを見てまわり、おみくじを引いた。
氷川様では吉だったよ、とささやいて引いた。
するとやっぱり吉だ。26番。
建て家、家移りともよし・・・とあった。
神社を出るとその裏に弁天さんがあった。そこにおびん
づる様が置かれていて、外国人の若い女性が写真を撮っ
ていた。
それは触ってもいいんですよ。 You can touch and
pet it .
あなたの体で治したい場所をなでると良くなるかもし
れませんというと、少したどたどしい日本語で、「そ
うですね。よくお寺にありますよね」と答えた。
エッ、日本語が上手ですね。勉強中ですかと聞くと、
ドイツから日本語留学に来て、東京に住んでいるとの
ことだった。半年間勉強したというだけにしてはとて
も上手であった。
私はヨーロッパを旅行しミュンヘンやハイデルベルグ
などを訪ね、フランクフルトにはドイツ人の友人がい
ることなどを話した。
勉強中だから日本語を話したかったようだ。言葉はこ
うして、下手でもどんどん使うことが重要だ。
彼女に、たくさん日本人に話しかけなさいとアドバイ
スして別れた。
さて、日没が近かったので、境内の裏手にあったお
店で焼きがきを頂いて、ライトアップを待った。
その写真も携帯にあるので、後日公開。
今夜の宿は宮島口、また夜のフェリーで本土に戻る。
旅の初日はやや寒かったものの、薄日がさし、まず
まずであった。
たぶんあしたもいい天気だろう。だって、旅行よし
だもの。
by katodiary
| 2014-01-04 13:01
| 旅に出よう
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