2015年 01月 06日
歴史を訪ねて冬の旅 ②奈良 明日香 |
岐阜の都ホテルは台湾からの観光客でいっぱいだった。
朝のバッフェスタイルの食堂でとなりの家族に聞くと台北
から来ているという。
政府は外国人観光客を現在の1300万人から2000万
人にする方針でいるのだが、そのためにも年末年始に休ん
でしまうお城や博物館などをなんとかしてほしい。
その点、岐阜市は少しエライ。岐阜城を開いているからね。
しかし、歴史博物館もやっててほしかったな。
個人の希望になってしまうが本当だ。
昨日のブログで柳ケ瀬の炭火焼の店を「備長いろり庵」だ
と教えてくれた方がいる。親切な方だ。
さっそく直してしまったので、これから読む方には分から
ないが。
さて、また東海道線で名古屋に戻り、京都へ。のぞみ号の
自由席に飛び乗ると数席の空きがあった。
京都からは近鉄線で橿原神宮前へ。
近鉄奈良駅に接続する西大寺駅を越えても依然として南へ
と走り続け、奈良市からの明日香の遠さを実感できた。
邪馬台国論争についてはあまり興味がないが、大陸から渡
ってきた知識階級の人々が対馬、筑紫、瀬戸の海を伝って
難波に上がり、川沿いに大津へ行ったり、山越えで明日香
に入り、地元豪族と交流したであろうことは疑いがない。
もちろん、もう一つの流れは日本海の壱岐、出雲や若狭と
いうルートであったろう。
藤原京が現在の橿原市に最初の条坊制(縦横の通り)を布
いた中国的な都であるが、それまでの都は難波、明日香、
大津などを転々としてしていたらしい。
今回は、橿原神宮駅で降りたが、明日香村を訪ねるのには
岡寺駅、飛鳥駅と続くのでどこでもよく、これらの駅の東
に広がる田園の村が明日香村である。
駅に貸し自転車があり、コインロッカーもあったので両方
にお世話になった。重たい荷物と厚いジャンパーを預けて
頂いた地図にそって自転車の人となる。
「村にはお店がないよー」とある人にいわれていたので、
コンビニで水とおにぎりを買った。
空は快晴、気温は温暖、風は微風。
登り坂も初めからローに設定されているので、スイスイ。
初めの遺跡があらわれた。
明日香の宮があったころ、時を知らせる水落しの装置だとい
う。
そのころに子の刻とかあったのかな。
とにかく中国からの科学文明や政治体制を学び、一刻も早く
国造りを進めようという時代だったに違いない。
次は飛鳥寺。地図もあり、道案内が随所にあるので迷わない。
寺宝は飛鳥大仏、日本最古の大仏である。
発願は蘇我馬子で推古天皇4年の596年に創建されたという。
仏教伝来が538年ころといわれているから、そこから約半世
紀。
仏教を広めようとした蘇我氏と聖徳太子は排仏派の物部氏との
間に弓矢を構え、587年の河内での戦いに勝利し、その後、
この飛鳥寺(旧名・元興寺)を創建したと伝えられている。
当時の飛鳥寺の規模は現在の十数倍の広さの大伽藍であったら
しいが二度の火災で焼けたりして荒廃し、現在の姿は江戸期に
再建されたものという。
田園の中に昔の姿を想像するのは難しいが、もしその大伽藍が
残されていたら、大仏の由来を説明してくださった住職さんと
は親しく話せなかったろうし、気楽に写真を撮ってもよいとい
うようなこともないのではないか。
現在の飛鳥寺は大仏様も含めて、ごく親しい関係を与えてくだ
さっているように思える。
飛鳥寺の西、100メートルほどのところに「入鹿の首塚」と
呼ばれている石塔がある。
大化の改新で殺されたときに大極殿から首が飛んできたという
伝説があるというが、それはほかにも飛んできた話があり、お
そらくとある有力者の墓であろう。
誰かは知らず。
また自転車に乗って、酒船石をめざす。
飛鳥寺から約10分、後ろに山を控えた丘の一角にそれはあっ
た。少し歩いて登る。
何のために作られたか、どうしてココにあるのか、結局まだ
分からない。
分からないほうが想像を逞しくできていい。
私の考えじゃあ・・・やっぱり分からない。
ただ、この場所の下、細道を20m下ると石垣の遺構がある。
どうやらこの辺一帯は人工的に作られた丘であるらしく、祭
りや祈りの場であったかもしれない。
もう一つ、この丘の下部に気になる石の遺構がある。
亀形石造物といわれている。
付近の丘に比べて一段低い谷間であり、鑑賞観光の場ではな
さそうなところから、祭祀の場と考えられているらしい。
現在も周囲の発掘が進められており、その成果を期待したい
が私の考えじゃ・・・
その昔から吉兆を占うのは亀の甲羅であった。ゆえに亀をモ
チーフに使い、厄払い、病気平癒、豊作祈願、家内安全、良
縁祈願、無事故運転、大学合格などなどあらゆる祈祷をする
場所で、あの亀の中で清水で身を清めて祈ったんじゃアない
か。
また自転車に乗る。気楽なもんだ。
次は「石舞台古墳」
石舞台古墳は蘇我馬子の墓というのが有力であるらしい。
写真で分かるように下部は大きな方形の堀があり、相当の規
模である。説明文によると、周辺のいくつかあった古墳を整
理してこれだけの広さを確保したらしい。
中に入るとまっすぐに置かれたいくつもの立石の壁がまっす
ぐ並んでいることに驚いた。天蓋の石は77トンあるという。
古墳時代後期、明日香のころの土木技術の高さに驚かされる。
最後の写真は、失われた石棺の復元物。
これも重いのによく持っていったものだ。
石舞台の周囲の土手には、桜が植えられていた。春はさぞか
しと思われる。
飛ぶ鳥の明日香を見下ろす石舞台 主を慕いてさくら花咲く
うまいね。加藤作。
飛ぶ鳥の・・・は明日香の歌の枕詞だ。
石舞台古墳のそばの休憩所でおにぎりを食す。
ハイ 次。
橘寺というか、二面石。
橘寺はあまり見るものなし。いろいろ売ってばかり。そして
撮影はご遠慮下さい。
庭に二面石がある。
二面石はこれまた分からない。
人間の善と悪の顔が両側に描かれてあるともいうし、正直
分からない。
私の考えじゃァ・・・
これはおじいさんとおばあさんじゃないか。
顔が引っこんでいるのが翁かな。
ま、いいや。
次、亀石。
橘寺の西、畑と住宅の間にポツンとあって、柵もなにもない。
きっと近所の子供たちの遊び場であったろう。
これも分からないのだが、伝説ではこれが西を向くと奈良盆
地全体が泥の海になるとか・・・。
しかし、私にはどうみても亀じゃなく、カエルに見えるのだ
が。
ハイ、次は鬼の雪隠と鬼の俎板(まないた)。
これはまあ、考証がしっかりしていてどなたかを葬った石
造りの墓の蓋と土台の石ということだ。
石の土台はこちら
畑をまわる道沿いにあるのがはじめの蓋の部分、雪隠で、少
し上の竹藪に中に土台石の俎板がある。
鬼が近所をとおる旅人を殺して、俎板の上で調理し、食べた
あと、下の雪隠で・・・という伝説の石である。セットだ。
地震かなにかでフタの石が転がり落ちたのかと推定されてい
るが、私の考えじゃァ・・・
誰かがフタの石を盗んでなにかに加工しようと坂道を転げさ
せたのだが、不幸にして手伝わせていた息子に当たり即死し
てしまった。古墳のたたりを思い知って、それからは善人に
なり、石どろぼうが出ないように鬼の伝説を作って広めた。
それからはこのあたりに近づくものはなく、今に至ってい
るという・・・。
そうだ、それに違いない。
この後は高松塚古墳、壁画館に行きたかったのだが、古墳は
保存のため閉じられ、壁画館も年末年始の閉館であった。
以上、長かった1日が終わった・・が終わっていない。この
あと、橿原神宮駅そばの久米寺に行った。
自転車で明日香を回るなんて若い人のやることで、私もまだ
まだ若いということだ。爽快な1日であった。
久米仙人の寺、久米寺。
それはまた、明日のココロだー。
朝のバッフェスタイルの食堂でとなりの家族に聞くと台北
から来ているという。
政府は外国人観光客を現在の1300万人から2000万
人にする方針でいるのだが、そのためにも年末年始に休ん
でしまうお城や博物館などをなんとかしてほしい。
その点、岐阜市は少しエライ。岐阜城を開いているからね。
しかし、歴史博物館もやっててほしかったな。
個人の希望になってしまうが本当だ。
昨日のブログで柳ケ瀬の炭火焼の店を「備長いろり庵」だ
と教えてくれた方がいる。親切な方だ。
さっそく直してしまったので、これから読む方には分から
ないが。
さて、また東海道線で名古屋に戻り、京都へ。のぞみ号の
自由席に飛び乗ると数席の空きがあった。
京都からは近鉄線で橿原神宮前へ。
近鉄奈良駅に接続する西大寺駅を越えても依然として南へ
と走り続け、奈良市からの明日香の遠さを実感できた。
邪馬台国論争についてはあまり興味がないが、大陸から渡
ってきた知識階級の人々が対馬、筑紫、瀬戸の海を伝って
難波に上がり、川沿いに大津へ行ったり、山越えで明日香
に入り、地元豪族と交流したであろうことは疑いがない。
もちろん、もう一つの流れは日本海の壱岐、出雲や若狭と
いうルートであったろう。
藤原京が現在の橿原市に最初の条坊制(縦横の通り)を布
いた中国的な都であるが、それまでの都は難波、明日香、
大津などを転々としてしていたらしい。
今回は、橿原神宮駅で降りたが、明日香村を訪ねるのには
岡寺駅、飛鳥駅と続くのでどこでもよく、これらの駅の東
に広がる田園の村が明日香村である。
駅に貸し自転車があり、コインロッカーもあったので両方
にお世話になった。重たい荷物と厚いジャンパーを預けて
頂いた地図にそって自転車の人となる。
「村にはお店がないよー」とある人にいわれていたので、
コンビニで水とおにぎりを買った。
空は快晴、気温は温暖、風は微風。
登り坂も初めからローに設定されているので、スイスイ。
初めの遺跡があらわれた。
明日香の宮があったころ、時を知らせる水落しの装置だとい
う。
そのころに子の刻とかあったのかな。
とにかく中国からの科学文明や政治体制を学び、一刻も早く
国造りを進めようという時代だったに違いない。
次は飛鳥寺。地図もあり、道案内が随所にあるので迷わない。
寺宝は飛鳥大仏、日本最古の大仏である。
発願は蘇我馬子で推古天皇4年の596年に創建されたという。
仏教伝来が538年ころといわれているから、そこから約半世
紀。
仏教を広めようとした蘇我氏と聖徳太子は排仏派の物部氏との
間に弓矢を構え、587年の河内での戦いに勝利し、その後、
この飛鳥寺(旧名・元興寺)を創建したと伝えられている。
当時の飛鳥寺の規模は現在の十数倍の広さの大伽藍であったら
しいが二度の火災で焼けたりして荒廃し、現在の姿は江戸期に
再建されたものという。
田園の中に昔の姿を想像するのは難しいが、もしその大伽藍が
残されていたら、大仏の由来を説明してくださった住職さんと
は親しく話せなかったろうし、気楽に写真を撮ってもよいとい
うようなこともないのではないか。
現在の飛鳥寺は大仏様も含めて、ごく親しい関係を与えてくだ
さっているように思える。
飛鳥寺の西、100メートルほどのところに「入鹿の首塚」と
呼ばれている石塔がある。
大化の改新で殺されたときに大極殿から首が飛んできたという
伝説があるというが、それはほかにも飛んできた話があり、お
そらくとある有力者の墓であろう。
誰かは知らず。
また自転車に乗って、酒船石をめざす。
飛鳥寺から約10分、後ろに山を控えた丘の一角にそれはあっ
た。少し歩いて登る。
何のために作られたか、どうしてココにあるのか、結局まだ
分からない。
分からないほうが想像を逞しくできていい。
私の考えじゃあ・・・やっぱり分からない。
ただ、この場所の下、細道を20m下ると石垣の遺構がある。
どうやらこの辺一帯は人工的に作られた丘であるらしく、祭
りや祈りの場であったかもしれない。
もう一つ、この丘の下部に気になる石の遺構がある。
亀形石造物といわれている。
付近の丘に比べて一段低い谷間であり、鑑賞観光の場ではな
さそうなところから、祭祀の場と考えられているらしい。
現在も周囲の発掘が進められており、その成果を期待したい
が私の考えじゃ・・・
その昔から吉兆を占うのは亀の甲羅であった。ゆえに亀をモ
チーフに使い、厄払い、病気平癒、豊作祈願、家内安全、良
縁祈願、無事故運転、大学合格などなどあらゆる祈祷をする
場所で、あの亀の中で清水で身を清めて祈ったんじゃアない
か。
また自転車に乗る。気楽なもんだ。
次は「石舞台古墳」
石舞台古墳は蘇我馬子の墓というのが有力であるらしい。
写真で分かるように下部は大きな方形の堀があり、相当の規
模である。説明文によると、周辺のいくつかあった古墳を整
理してこれだけの広さを確保したらしい。
中に入るとまっすぐに置かれたいくつもの立石の壁がまっす
ぐ並んでいることに驚いた。天蓋の石は77トンあるという。
古墳時代後期、明日香のころの土木技術の高さに驚かされる。
最後の写真は、失われた石棺の復元物。
これも重いのによく持っていったものだ。
石舞台の周囲の土手には、桜が植えられていた。春はさぞか
しと思われる。
飛ぶ鳥の明日香を見下ろす石舞台 主を慕いてさくら花咲く
うまいね。加藤作。
飛ぶ鳥の・・・は明日香の歌の枕詞だ。
石舞台古墳のそばの休憩所でおにぎりを食す。
ハイ 次。
橘寺というか、二面石。
橘寺はあまり見るものなし。いろいろ売ってばかり。そして
撮影はご遠慮下さい。
庭に二面石がある。
二面石はこれまた分からない。
人間の善と悪の顔が両側に描かれてあるともいうし、正直
分からない。
私の考えじゃァ・・・
これはおじいさんとおばあさんじゃないか。
顔が引っこんでいるのが翁かな。
ま、いいや。
次、亀石。
橘寺の西、畑と住宅の間にポツンとあって、柵もなにもない。
きっと近所の子供たちの遊び場であったろう。
これも分からないのだが、伝説ではこれが西を向くと奈良盆
地全体が泥の海になるとか・・・。
しかし、私にはどうみても亀じゃなく、カエルに見えるのだ
が。
ハイ、次は鬼の雪隠と鬼の俎板(まないた)。
これはまあ、考証がしっかりしていてどなたかを葬った石
造りの墓の蓋と土台の石ということだ。
石の土台はこちら
畑をまわる道沿いにあるのがはじめの蓋の部分、雪隠で、少
し上の竹藪に中に土台石の俎板がある。
鬼が近所をとおる旅人を殺して、俎板の上で調理し、食べた
あと、下の雪隠で・・・という伝説の石である。セットだ。
地震かなにかでフタの石が転がり落ちたのかと推定されてい
るが、私の考えじゃァ・・・
誰かがフタの石を盗んでなにかに加工しようと坂道を転げさ
せたのだが、不幸にして手伝わせていた息子に当たり即死し
てしまった。古墳のたたりを思い知って、それからは善人に
なり、石どろぼうが出ないように鬼の伝説を作って広めた。
それからはこのあたりに近づくものはなく、今に至ってい
るという・・・。
そうだ、それに違いない。
この後は高松塚古墳、壁画館に行きたかったのだが、古墳は
保存のため閉じられ、壁画館も年末年始の閉館であった。
以上、長かった1日が終わった・・が終わっていない。この
あと、橿原神宮駅そばの久米寺に行った。
自転車で明日香を回るなんて若い人のやることで、私もまだ
まだ若いということだ。爽快な1日であった。
久米仙人の寺、久米寺。
それはまた、明日のココロだー。
by katodiary
| 2015-01-06 11:59
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