2015年 07月 14日
本能寺の変 431年目の真実 |
明智憲三郎氏の書いた本をダラダラ読んでみた。
氏の説の要点をまとめると、
・明智光秀は土岐源氏の流れを汲む明智家に生まれたが、明智
城を攻められたあと、諸国を流れ、細川藤孝に拾われた。
時の将軍の義輝に仕えたのではなかった。
・その後、義輝が三好に襲われ殺された後、義昭が将軍を名乗
ったが、人材を求められた藤孝が光秀を提供した。
・信長が京都に上るために足利義昭を利用するときに、光秀を
召し抱えた。(ここは定説どおり)
・光秀は世間に言われるように、信長から苛められることはな
く、出世に出世を重ね、甲州平定のあと、家康を安土に招く
接待奉行を任された。
・しかし、これは信長がその野望のために仕組んだワナで、京
都で家康を殺害する仕事を光秀に指示したものだった。
・賢い信長は、甲州で武田氏を滅亡させたあと、富士を見て帰
ると言い、駿河、遠々江、三河、つまり駿遠三の家康の領地
を軍事偵察して、事後に備えた。
・さらに信長は四国の長曾我部氏の台頭を抑え、まるまる領国
化するため、息子の信孝に丹羽長秀を配し、四国攻めを命じ
た。
・明智家は長曾我部家と深い姻戚関係にあり、安土城で家康の
殺害を命じられた際に、長曾我部攻めをやめるよう諫言した
が聞き入れられず、ついに光秀は謀反を決意した。
それを促したのは斉藤利光で、彼は長曾我部元親の室の義理
の兄にあたる。
・もう一つの謀反の理由は、信長が全国制覇を成したあと、唐
入りを想定しており、国内を身内で固めて、家臣団や陪臣、
外様などはみな海外に派兵、駐屯させられる恐れがあったこ
とで、これは秀吉によって実行された。(頓挫はしたが)
・光秀は中国攻めで領地代えを言い渡されており、このことも
安定した自身の生活が送れないと焦っていた。
・光秀は安土の城外で家康に会い、殺害計画が進んでいること
を暴露、それに反し、謀反で信長を討つことも告白した。
・家康は、目の上の信長を討つことを光秀がすることに賛成し、
一定の協力を約した。
・家康は京都で変が起こることを知ることになり、いつ起きる
か気にしながら堺見物をした。そのため、京に戻る前に茶屋
四朗次郎を二日前に先発させ、前日に本田平八郎も先行出発
させ情報収集を図った。彼は信長が殺されたあと、即座に岡
崎へ向け伊賀越えをしたが、伊賀衆の援護を確保しており、
神君伊賀越えのような困難なカミワザではなかった。
・家康とともに堺見物をしていた穴山梅雪を殺したのも家康の
配下であった。
・秀吉はそのころ高松城を水攻めで囲い、信長の出馬を仰いで
いたが、細川藤孝から光秀謀反の計画を伝えられ、事前にそ
れを知って、毛利との講和を急いだ。
藤孝は光秀の縁戚で、当然、味方と思っていて話したのだが、
あにはからんや、藤孝は忠義深く、秀吉に通報したのだった。
(なぜ、信長に通報しなかった?)
・秀吉が変のあと、細川藤孝を含め細川家を優遇したのはこう
した事情があった。
・高松城主・清水宗治の湖上の切腹で毛利との講和を結び、中
國大返しとなったが、藤孝の功績がなければ、とても秀吉は
急速に帰っては来れなかった。つまり、秀吉は信長が殺され
ることを知っていて、その仇を討つ形で天下を握りたかった
のだ。
・家康は岡崎に帰ってからすぐ穴山梅雪の城や織田領となった
甲州の簒奪に努め、光秀討ちの行動すなわち西に陣を進める
「西陣」は1週間も起こさなかった。
・秀吉が光秀を討つ天王山の戦いは6月13日だったが、その
日、家康は鳴海(三河と尾張の境界近く)に陣を張り、様子
見をしていた。これは光秀支援と光秀討ちの両面を図ってい
たことによる。
まあ、簡単にかいつまんでいえばこういうことだ。
あと、作者が強調していたのは、光秀が謀反の前に愛宕山で連
歌を催した際の発句、時はいま、雨が下しる五月かな は実
際は、 時はいま、雨の下なる五月かな であって、土岐源治
は今、困難な状況の下にある・・・と詠んだのだが、のちに秀
吉の系列によって、天下を平らげる「下統る(下しる)」に改
ざんされた。その証拠がどこそこにあるというものだ。
歴史は勝者が書き換えるので、そういうことはあったとしても
史実そのものは変えられない。
私の意見は、
謀反したのは事実。
動機は恐らく氏の言う通りだろう。
しかし、長曾我部を救うためにが理由なら、なぜ通知もせず同
時決起も促していないのはなぜか。
それから、家康を今殺害していい時期では決してない。
西の毛利、島津、長曾我部、東に北条、上杉、が控えており、
家康はまだまだ大事な同盟国だ。
信長に唐入りの構想があるなら、家康は貴重な人材でもある。
光秀が家康殺害を命じられたとあるが、殺すなら安土で殺せて
おり、何も衆人環視の京都で殺す必要がない。
それに、1万3千とも言われる大軍で主従40人程度の家康を
討つ必要もない。
さらに、光秀は細川藤孝にも謀反を漏らしたとあるが、藤孝が
信長にそれを伝えないというのも矛盾している。
様々な観点から氏の説は、つじつま合わせのために、無駄な仮
説をたて、つなぎ合わせるという繊細にして実に荒唐無稽な「
真実」と言えよう。
私は光秀が憎くないし、謀反もあることだと思うし、動機も十
分理解できるので、一事件として考えればいいと思う。
ただし、謀反を起こし、そのあとどういう政権を樹て、どうそ
れを経済・軍事の面で継続できるのかという見通しや他の勢力
との連携がまったくできていなかったと思う。
それがあの結末となったし、かなり衝動的、突発的な決断では
なかったろうか。
最近、歴史の真実を再発見・・的な本がよう出ている。
歴史好きなら楽しいかも。
氏の説の要点をまとめると、
・明智光秀は土岐源氏の流れを汲む明智家に生まれたが、明智
城を攻められたあと、諸国を流れ、細川藤孝に拾われた。
時の将軍の義輝に仕えたのではなかった。
・その後、義輝が三好に襲われ殺された後、義昭が将軍を名乗
ったが、人材を求められた藤孝が光秀を提供した。
・信長が京都に上るために足利義昭を利用するときに、光秀を
召し抱えた。(ここは定説どおり)
・光秀は世間に言われるように、信長から苛められることはな
く、出世に出世を重ね、甲州平定のあと、家康を安土に招く
接待奉行を任された。
・しかし、これは信長がその野望のために仕組んだワナで、京
都で家康を殺害する仕事を光秀に指示したものだった。
・賢い信長は、甲州で武田氏を滅亡させたあと、富士を見て帰
ると言い、駿河、遠々江、三河、つまり駿遠三の家康の領地
を軍事偵察して、事後に備えた。
・さらに信長は四国の長曾我部氏の台頭を抑え、まるまる領国
化するため、息子の信孝に丹羽長秀を配し、四国攻めを命じ
た。
・明智家は長曾我部家と深い姻戚関係にあり、安土城で家康の
殺害を命じられた際に、長曾我部攻めをやめるよう諫言した
が聞き入れられず、ついに光秀は謀反を決意した。
それを促したのは斉藤利光で、彼は長曾我部元親の室の義理
の兄にあたる。
・もう一つの謀反の理由は、信長が全国制覇を成したあと、唐
入りを想定しており、国内を身内で固めて、家臣団や陪臣、
外様などはみな海外に派兵、駐屯させられる恐れがあったこ
とで、これは秀吉によって実行された。(頓挫はしたが)
・光秀は中国攻めで領地代えを言い渡されており、このことも
安定した自身の生活が送れないと焦っていた。
・光秀は安土の城外で家康に会い、殺害計画が進んでいること
を暴露、それに反し、謀反で信長を討つことも告白した。
・家康は、目の上の信長を討つことを光秀がすることに賛成し、
一定の協力を約した。
・家康は京都で変が起こることを知ることになり、いつ起きる
か気にしながら堺見物をした。そのため、京に戻る前に茶屋
四朗次郎を二日前に先発させ、前日に本田平八郎も先行出発
させ情報収集を図った。彼は信長が殺されたあと、即座に岡
崎へ向け伊賀越えをしたが、伊賀衆の援護を確保しており、
神君伊賀越えのような困難なカミワザではなかった。
・家康とともに堺見物をしていた穴山梅雪を殺したのも家康の
配下であった。
・秀吉はそのころ高松城を水攻めで囲い、信長の出馬を仰いで
いたが、細川藤孝から光秀謀反の計画を伝えられ、事前にそ
れを知って、毛利との講和を急いだ。
藤孝は光秀の縁戚で、当然、味方と思っていて話したのだが、
あにはからんや、藤孝は忠義深く、秀吉に通報したのだった。
(なぜ、信長に通報しなかった?)
・秀吉が変のあと、細川藤孝を含め細川家を優遇したのはこう
した事情があった。
・高松城主・清水宗治の湖上の切腹で毛利との講和を結び、中
國大返しとなったが、藤孝の功績がなければ、とても秀吉は
急速に帰っては来れなかった。つまり、秀吉は信長が殺され
ることを知っていて、その仇を討つ形で天下を握りたかった
のだ。
・家康は岡崎に帰ってからすぐ穴山梅雪の城や織田領となった
甲州の簒奪に努め、光秀討ちの行動すなわち西に陣を進める
「西陣」は1週間も起こさなかった。
・秀吉が光秀を討つ天王山の戦いは6月13日だったが、その
日、家康は鳴海(三河と尾張の境界近く)に陣を張り、様子
見をしていた。これは光秀支援と光秀討ちの両面を図ってい
たことによる。
まあ、簡単にかいつまんでいえばこういうことだ。
あと、作者が強調していたのは、光秀が謀反の前に愛宕山で連
歌を催した際の発句、時はいま、雨が下しる五月かな は実
際は、 時はいま、雨の下なる五月かな であって、土岐源治
は今、困難な状況の下にある・・・と詠んだのだが、のちに秀
吉の系列によって、天下を平らげる「下統る(下しる)」に改
ざんされた。その証拠がどこそこにあるというものだ。
歴史は勝者が書き換えるので、そういうことはあったとしても
史実そのものは変えられない。
私の意見は、
謀反したのは事実。
動機は恐らく氏の言う通りだろう。
しかし、長曾我部を救うためにが理由なら、なぜ通知もせず同
時決起も促していないのはなぜか。
それから、家康を今殺害していい時期では決してない。
西の毛利、島津、長曾我部、東に北条、上杉、が控えており、
家康はまだまだ大事な同盟国だ。
信長に唐入りの構想があるなら、家康は貴重な人材でもある。
光秀が家康殺害を命じられたとあるが、殺すなら安土で殺せて
おり、何も衆人環視の京都で殺す必要がない。
それに、1万3千とも言われる大軍で主従40人程度の家康を
討つ必要もない。
さらに、光秀は細川藤孝にも謀反を漏らしたとあるが、藤孝が
信長にそれを伝えないというのも矛盾している。
様々な観点から氏の説は、つじつま合わせのために、無駄な仮
説をたて、つなぎ合わせるという繊細にして実に荒唐無稽な「
真実」と言えよう。
私は光秀が憎くないし、謀反もあることだと思うし、動機も十
分理解できるので、一事件として考えればいいと思う。
ただし、謀反を起こし、そのあとどういう政権を樹て、どうそ
れを経済・軍事の面で継続できるのかという見通しや他の勢力
との連携がまったくできていなかったと思う。
それがあの結末となったし、かなり衝動的、突発的な決断では
なかったろうか。
最近、歴史の真実を再発見・・的な本がよう出ている。
歴史好きなら楽しいかも。
by katodiary
| 2015-07-14 17:59
| うつつの中で
|
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