2016年 12月 27日
古河歴史博物館 |
昨日の月曜日、ウィズは休校なので、昼から古河市に出か
けた。
目的は佐野市の秋山町にあるそば屋の「かみやま」に行き
たかったからである。
じゃあ、佐野市に行けばいいじゃん。
ウーン、それだと時間配分が悪い。それにソバの為だけに
車で1時間半もかけるのはどうも。
ようするに、なにかと結合させてソバを楽しむのがいい。
古河市はよく分からない町のひとつだ。
どんな町なのか、どういう人がいてどんなことをしたのか。
分からないものを知る、これが生きている楽しみのひとつ
であろう。
古河歴史博物館。
月曜日も開いていることを確かめて出発した。
宮原からは久喜へ出て、猿島あたりを抜けるとすぐ古河で
何も東北道を使う必要はない。
その町のことを知りたければまず歴史博物館を訪ねるとよ
い。だいたい古代からの歴史や習俗、著名な人々とその活
躍、特産品などあらかたのことはつかめる。
この博物館のメインの展示は鷹見泉石についてである。
ほら、もう分からない。なんだよ、どんな石なんだい?
鷹見泉石とは江戸末期の武家で、古河藩の家老を努め上
げた熱意と工夫、努力の優秀官僚といっていい人である。
フーンそうなの。
彼は渡辺崋山の「鷹見泉石像」という陰影法を取り入れた
国宝の日本画によって多くの人に知られている。
そういえば、なんかで見たことあるよなァ。
それがこれだ。
鷹見泉石
描いた本人はこれだ。
渡辺崋山
なあるほど。でもどんな人だった?
彼は藩のお殿様、土井利厚・利位(としつら)の2代に務め
藩の財政・教育・外交などさまざまな面でそれらを支えたば
かりでなく、幕末の困難な時期に、藩主の筆頭老中としての
活動を補佐したといわれている。
渡辺崋山は幕末の日本画家であるが、三河の国の小藩田原藩
の家老でもあった。
崋山と泉石は友人どうしである。同じ家老で、外国からの圧
力が高まってきている時勢を論じ合う仲間でもあった。
絵の題材に泉石を選んだのもそういうことからだった。
崋山も泉石も今の日本がいつまでも鎖国を続けているよりは
進んで開国し、産業を起こし、外圧には海防力を高めて独立
を守るべきだと考えていたが、天保の頃はまだ外国船は打ち
払い鎖国を守るべしという保守派が多かった。
そのため滅多なことでは正論は言えず、表むきは海防鎖国論
をいいつつ、問題を投げかける立場を取っていたのだが、そ
の事情を知る幕府内の保守派から「蛮社の獄」を起こされる。
それで疑いをかけられたのが高野長英や崋山などであった。
崋山の家は家宅捜索され、未発表の開国論が見つかって、蟄
居謹慎を命じられる。最終的に崋山みずから死を選ぶのだが、
その知らせを受け取った泉石の嘆きが彼の日記に残され、今
博物館に展示されている。
泉石はこうした時代のなかで、藩主に将来の日本のあるべき
姿を説き、開国通商、殖産海防、欧米の近代科学の学習と人
材開発、そのための外国講師の導入などといった政策を幕閣
のものにしていった。
勝海舟が長崎の海軍伝習所の塾頭であったが、それを開設し
ようとした当時の閣僚の補佐であったわけだ。
泉石の業績のひとつに、和蘭国全図がある。
オランダの国の地図で、1500の町の名がカタカナでふら
れ、河川、湖、境界など実にこまごまと記されている。
そしてこれを作った趣旨が書かれてあるのだが、オランダと
長く交流はあったが、これまで深くオランダやヨーロッパの
匡と文化について学ぶことができないできた。
日本人もこれからは広く海外のことを把握するべしというこ
とであった。
またこの場所で見られるものに、日光駅路里数之表がある。
江戸から日光までの全宿駅間の距離数を早見表にしたもので
あるが、これは当時日本になく、オランダの表を手本にした
ものだ。
なんのためのものかというと、将軍様の日光社参のおり、そ
のお行列の管理運営にとてもベンリであったそうな。
こうした地図は版木に彫って印刷するのだが、このうちの1
枚はなんとあのシーボルトにあげたそうである。
ということは、1枚はあのライデン博物館にあるのかな?
鷹見泉石恐るべし。古河市恐るべし。
長くなったので、ソバは明日だ。
・
けた。
目的は佐野市の秋山町にあるそば屋の「かみやま」に行き
たかったからである。
じゃあ、佐野市に行けばいいじゃん。
ウーン、それだと時間配分が悪い。それにソバの為だけに
車で1時間半もかけるのはどうも。
ようするに、なにかと結合させてソバを楽しむのがいい。
古河市はよく分からない町のひとつだ。
どんな町なのか、どういう人がいてどんなことをしたのか。
分からないものを知る、これが生きている楽しみのひとつ
であろう。
古河歴史博物館。
月曜日も開いていることを確かめて出発した。
宮原からは久喜へ出て、猿島あたりを抜けるとすぐ古河で
何も東北道を使う必要はない。
その町のことを知りたければまず歴史博物館を訪ねるとよ
い。だいたい古代からの歴史や習俗、著名な人々とその活
躍、特産品などあらかたのことはつかめる。
この博物館のメインの展示は鷹見泉石についてである。
ほら、もう分からない。なんだよ、どんな石なんだい?
鷹見泉石とは江戸末期の武家で、古河藩の家老を努め上
げた熱意と工夫、努力の優秀官僚といっていい人である。
フーンそうなの。
彼は渡辺崋山の「鷹見泉石像」という陰影法を取り入れた
国宝の日本画によって多くの人に知られている。
そういえば、なんかで見たことあるよなァ。
それがこれだ。
鷹見泉石
描いた本人はこれだ。
渡辺崋山
なあるほど。でもどんな人だった?
彼は藩のお殿様、土井利厚・利位(としつら)の2代に務め
藩の財政・教育・外交などさまざまな面でそれらを支えたば
かりでなく、幕末の困難な時期に、藩主の筆頭老中としての
活動を補佐したといわれている。
渡辺崋山は幕末の日本画家であるが、三河の国の小藩田原藩
の家老でもあった。
崋山と泉石は友人どうしである。同じ家老で、外国からの圧
力が高まってきている時勢を論じ合う仲間でもあった。
絵の題材に泉石を選んだのもそういうことからだった。
崋山も泉石も今の日本がいつまでも鎖国を続けているよりは
進んで開国し、産業を起こし、外圧には海防力を高めて独立
を守るべきだと考えていたが、天保の頃はまだ外国船は打ち
払い鎖国を守るべしという保守派が多かった。
そのため滅多なことでは正論は言えず、表むきは海防鎖国論
をいいつつ、問題を投げかける立場を取っていたのだが、そ
の事情を知る幕府内の保守派から「蛮社の獄」を起こされる。
それで疑いをかけられたのが高野長英や崋山などであった。
崋山の家は家宅捜索され、未発表の開国論が見つかって、蟄
居謹慎を命じられる。最終的に崋山みずから死を選ぶのだが、
その知らせを受け取った泉石の嘆きが彼の日記に残され、今
博物館に展示されている。
泉石はこうした時代のなかで、藩主に将来の日本のあるべき
姿を説き、開国通商、殖産海防、欧米の近代科学の学習と人
材開発、そのための外国講師の導入などといった政策を幕閣
のものにしていった。
勝海舟が長崎の海軍伝習所の塾頭であったが、それを開設し
ようとした当時の閣僚の補佐であったわけだ。
泉石の業績のひとつに、和蘭国全図がある。
オランダの国の地図で、1500の町の名がカタカナでふら
れ、河川、湖、境界など実にこまごまと記されている。
そしてこれを作った趣旨が書かれてあるのだが、オランダと
長く交流はあったが、これまで深くオランダやヨーロッパの
匡と文化について学ぶことができないできた。
日本人もこれからは広く海外のことを把握するべしというこ
とであった。
またこの場所で見られるものに、日光駅路里数之表がある。
江戸から日光までの全宿駅間の距離数を早見表にしたもので
あるが、これは当時日本になく、オランダの表を手本にした
ものだ。
なんのためのものかというと、将軍様の日光社参のおり、そ
のお行列の管理運営にとてもベンリであったそうな。
こうした地図は版木に彫って印刷するのだが、このうちの1
枚はなんとあのシーボルトにあげたそうである。
ということは、1枚はあのライデン博物館にあるのかな?
鷹見泉石恐るべし。古河市恐るべし。
長くなったので、ソバは明日だ。
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by katodiary
| 2016-12-27 12:52
| 旅に出よう
|
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